ボックス席

浅田志津子

伊豆の実家から
埼玉の自宅に戻る道中
伊豆急の ボックス席に座る
車窓に広がる 海を眺めながら
ふと 向かい側に座った
七十くらいの老人に目をやると
向田邦子のエッセイ集を読んでいる

 「私も、向田邦子の愛読者です」
 「彼女の本は、エッセイも小説も
  シナリオも、すべて読んでいます」
 「父が大好きで、家のあちこちに
  何冊も置いてあったんです」
 「それを手にとって、
  中学生の頃に読んだのがきっかけで
  私、活字の世界に進んだんです」

 「父とは、そりがあいませんでした」
 「よかれと思ってしたことも
  悪くとられて、喧嘩になりました」
 「でも、本の好みは似ていました」
 「詩が好きなところも似ていました」
 「詩のコンクールで何度も賞をとったけど
  父は私を、一度もほめてくれませんでした」
 「私の詩の朗読を、聴く事もありませんでした」
 「昨年、父が癌で逝きました」
 「棺に、向田邦子の本を入れてあげました」
 「昨日、父の一周忌でした」

あとからあとから あふれでてくる
言葉の波を 必死で飲みこんで
車窓に広がる海を
ぼんやり眺めるふりをしながら
視界の隅の 老人を見ていた

それから 約三十分後
老人が 電車を降りていった
タイヤの穴から
いっきに空気がもれるように
私は 全身で 深すぎるため息をついた

あふれでる 言葉の代わりに